敵 日本共産党

政治教育の殿堂 國民會館

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はじめに

10月22日投票が行われた第48回衆議院選挙において、共産党は21議席から9議席を減らし、12議席に終わった。選挙において各党各々熱のこもった運動を展開していたが、特に日本共産党の運動は他党に比較して、極めて熱心でいささか狂信的ですらあった。
ポスターも垢抜けしてソフトムードをかもしている上に、志位和夫委員長自らテレビや街頭演説で、硬軟入り交じった語り口で大衆に語りかけている。しかし、表面的には柔軟かつ建設的な共産党の政策に従えば、安倍反動内閣は瓦解し、あたかもユートピアが誕生するかのような口調に決してだまされてはならないのである。先に小選挙区で9議席減の12議席に終わったと書いたが、一方もう一つのバロメーターである比例区の獲得数でも前回の6,063,000票から4,400,000票へと大きく減らしている。そこで今回は、日本共産党の本当の姿について少し論じたいと思っている。それでは、先ず日本共産党の成り立ちから話を進めていきたい。

 

第一章「戦前の非合法化時代」

第1節「結党後コミンテルンの傘下へ」
本共産党の歴史は古い。1922年(大正11年)7月(9月説もある)に堺利彦、山川均、荒畑寒村を中心に創立された。他に幹部としては野坂参三、徳田球一、佐野学などがいる。当時すでに、共産主義国家ソヴィエトを形成していたロシアの共産主義運動における力は強く、ソ連主導による共産主義インターナショナル(Communist International)略してComintern(コミンテルン)が世界の共産主義運動を牛耳っていた。当然生まれたての日本共産党もコミンテルンの傘下に入り、コミンテルンの日本支部日本共産党となった。設立当時から日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引き渡し」などを求めたため、当然治安当局からは弾圧を受け、治安警察法などの治安立法により非合法化された。更に主要幹部が一斉に検挙されたため運動は困難となり、1924年(大正13年)共産党は解散の憂き目にあう。

 

第2節「非合法な地下活動を合法組織に入って支援」
その後1926年(昭和元年)共産党は、荒畑寒村等により再建されたが、コミンテルンの考え方に強く左右された。大変わかりにくいのであるが、その後共産主義者達は、非合法化された日本共産党本体と労農党のような合法政党や労働団体などの諸団体に入って活動する。この再結党された共産党を第二次日本共産党と呼ぶが、その際理論的な指導者となったのが福本和夫であった。彼の理論は福本イズムと云われ、レーニンの考えを継承して純粋な共産主義の党をつくることを目的としていた。当時福本の他に党を指導する幹部となったのが、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔などであった。ところが1927年(昭和2年)またもやコミンテルンから指導が入り、福本和夫は失脚させられる。後を継いだ渡辺ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して新たに共産党の目標として「中国侵略と戦争準備に反対する闘争」を党の緊急焦眉の義務と位置付けた。一方当時の党の組織は、非合法の党本体と、先にも述べたように労農党や労働組合などの諸団体に入って活動する合法部門の二つの柱があって、非合法の地下活動を展開しながら、一方では合法の組織に参加して活動を支えた。例えば宮本百合子、小林多喜二らのプロレタリア文学者は独自に活動して、社会に大きな影響を与えた。1927年の衆議院選挙においては有名な徳田球一他何名かが労農党から立候補し、またこの選挙中に日本共産党を名乗る印刷物が発行され物議をかもした。この選挙では、後に暗殺された山本宣治が当選した。彼は非公式であったが、共産党の推薦を受けており、初めての日本共産党系の国会議員が誕生したのであった。しかし、1928年(昭和3年)の3.15事件、これは、当時の日本帝国政府が私有財産制を否定する国際共産主義運動を警戒して、同年3月15日に治安維持法により、共産党員及び無産政党の支持者1,600名を一斉検挙した事件であった。又翌年1929年(昭和4年)4月15日にはさらに1,000名を検挙したため日本共産党は多くの活動家を失い壊滅したのであった。上記の山本宣治も右翼団体員により刺殺された。その後、戦後右翼に転向したが、理論に優れ、行動力にも富んだ田中清玄が指導者となり、1929年(昭和4年)から30年にかけ、一連の暴力事件を起こす。1931年(昭和6年)9月に起きた満州事変以降は、戦争反対の活動に力を入れるようになる。

 

第3節「コミンテルンの二段階革命路線に従い活動」
しかし、翌1932年(昭和7年)にコミンテルンが新しい活動方針を示した。即ち「絶対主義的天皇制と地主的土地所有者ならびに独占資本主義を打倒するブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命を達成する」という二段階革命路線が示されたため、共産党はこの方針に従い行動するようになった。その後1932年以降党内で当局の攪乱による大塚スパイ事件が起こり、党内は疑心暗鬼となり混乱した。実際特高警察は、共産党を壊滅させるため、共産党内部に工作員を送り込み、党内部に協力者をつくったり、工作員自らが党の幹部となり、彼等の働きで暴力事件を起こさせ、日本共産党の社会的な信用を失墜させ、後継者の加入を阻止して党を壊滅させる作戦をとった。加えて1933年(昭和8年)に逮捕されていた委員長の佐野学や幹部の鍋山貞親の獄中からの転向が出て大量の転向が起き、党内の結束は乱れ動揺が激しくなり、中央部の機能は停止して、統一的な運動は不可能となった。1936年(昭和11年)以降の戦争の最中においては何とか苦境を脱しようとするこころみがあったが、当局の弾圧は厳しく野坂参三は中国の延安に亡命し、組織的な活動は頓挫せざるを得なかった。

 

■第二章「戦後の紆余曲折の歴史」

第1節「ゼネストで敗北、武装闘争路線で分裂」
1945年(昭和20年)8月15日の日本の降伏後、日本共産党は徳田球一を書記長として、合法政党として再出発する。これにより獄に下っていた幹部は出獄し、1946年(昭和21年)の総選挙においては5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得たのであった。日本国憲法制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表し、現在の日本国憲法制定時には「天皇制の存続による民主化の不徹底」や「自衛戦争の否定」などを理由に反対投票した。それなのに何故現在改憲に反対するのか?敗戦により解放された共産党は急激に勢力を拡大していった。各地域、職場、学校などに細胞と呼ばれる支部組織をつくり、学生運動や労働運動を展開する。そして1947年(昭和22年)に吉田内閣打倒のためゼネストと呼ばれるゼネラル・ストライキの実行を全国的に進めるが、総司令部マッカーサー元帥の命令により中止のやむなきに至り、これは共産党の敗北に加えその後の労働運動に大きな影を落とした。その後、日本国憲法のもとにおける第23回総選挙、第1回参議院選挙、又第1回地方選挙では主張が過激すぎると思われたのか、思ったより票が伸びず4議席に終わったが、1949年(昭和24年)の総選挙では一躍35議席と、9倍に増やし、注目された。1950年(昭和25年)5月GHQのマッカーサー元帥は、共産党の急激な伸張に危機感をいだき、日本共産党の非合法化と徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律以下9名の幹部を公職から追放した。公職追放と逮捕状の出た徳田、野坂等は直ちに非合法活動に移行し、中国に亡命した。そして日本には、所感派といわれた徳田球一が指名した臨時中央指導部が残ったのであるが、これについては異議を唱えるものがあり、共産党は所感派と、後の委員長宮本顕治らの国際派、春日庄次郎らの日本共産党国際主義派等の大小の派閥に分裂した。しかし、当面党を指導した所感派は、山村工作隊などさまざまな違法な非合法破壊活動を繰り返し、これらの武装闘争路線は国民に全く受け入れられず、1952年(昭和27年)の総選挙では全員が落選するという厳しい局面となった。この武装闘争路線について、政府は早速反応した。即ち1952年の破壊活動防止法(略して破防法)の制定である。破防法の対象となる破壊的団体の規制に関する調査を行うのが公安調査庁であるが、発足した時点から一貫して日本共産党をその監視対象としている。この破防法と共産党との関係については後程さらに触れたいと思っている。
1951年(昭和26年)9月にサンフランシスコに於いて講和条約が結ばれ、日本は主権を回復したのであるが、これにより公職追放も解除された。徳田は北京から地下放送で武装闘争を指示したが、所感派の中でも徳田と野坂が対立した。その中で1953年(昭和28年)徳田が死亡する。

 

第2節「武装闘争路線を放棄し自主独立路線へ転換」
1955年(昭和30年)7月、日本共産党は第6回目に当たる全国協議会(六全協)を開催し、従来の中国革命方式の武装闘争方式を放棄した。そしてこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。ここで宮本は再統一を優先して党員各自の活動歴を不問としたのであった。この結果、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」がはかられたのである。更に1958年(昭和33年)の第7回党大会で宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この大会で1950年(昭和25年)から1955年迄の分裂と混乱を批判し、その軍事路線は、ソ連、中国による干渉と徳田、野坂の旧所感派による暴力革命が可能であるとした政治情勢で無いにもかかわらず、武装闘争をすすめた極左冒険主義であるとして批判している。これ以降外国の干渉を受けない自主独立路線をとることになった。この突然の日本共産党の武装闘争路線からの変更は、各方面にショッキングなものであった。しかしこの方針変更が大きなしこりを残した事は否定できない。何故なら共産党は、1951年(昭和26年)10月の第5回全国協議会において「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いである」とする「51年綱領」と「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定していた。そして昭和20年代の後半には全国的に数々の暴力的破壊事件を引き起こしている。しかし前述の通り、この過激路線は国民からボイコットされ、1952年(昭和27年)の衆院選挙では全員落選したのであった。ところで現在の共産党は「昭和20年代後半における暴力的破壊活動は分裂した一派が行ったことで、党としての活動ではない」とぬけぬけと主張している。しかし、共産党が一連の暴力革命に向ってひきおこした破壊活動は厳然とした事実であり、司法からも党の活動であると認定されている。共産党は、1955年(昭和30年)7月に開いた全国協議会で20年代後半にしでかした武装闘争を「革命情勢でもないにもかかわらず武装蜂起した極左冒険主義である」と自己批判し、次いで1958年(昭和33年)の第7回大会で暴力革命唯一論の立場に立った「51年綱領」を「一つの重要な歴史的な役割をはたした」と評価した上で廃止したのであった。大変自己中心的な自己批判であって、数々の人命を奪った革命路線をその程度で片付けるのは言語道断と思うが、如何であろうか。この大会で党の新綱領を決めようとしたが、革命の基本認識などで反対意見が多く出て党内意思統一を図ることが出来なかった。その結果規約のみを承認し綱領決定は先延ばしとなった。

 

第3節「二段階革命の綱領、暴力革命の方針を採択」
その後宮本顕治書記長が力を発揮して、その指導の下で3年間にわたる党を挙げての綱領論争を展開したが、規約、綱領反対派に対する幹部の除名を経て1961年(昭和36年)7月、第8回党大会が開催された。そこで「現在の日本を支配しているのはアメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独古資本である」とする現状規定と民主主義革命から引き続き社会主義革命に至るという「二段階革命」方式を規定した現綱領が採択されたのであった。一方、革命が「平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方次第による」とするいわゆる「敵の出方論」による暴力革命の方針が示された。これは大変重要なことで日本共産党の本質は、現在でも「暴力革命」にあるということを国民はあらためてよく認識する必要がある。その後の共産党は、宮本顕治が独裁的な党運営を行い、党を完全に牛耳った。党内では親ソ、親中路線など数々の問題も抱えたが、日本共産党独自路線を貫いた。一方1991年(平成3年)12月にソ連邦及びソ連共産党は解散するが、日本共産党は、宮本の下では、社会党との共闘や創価学会との提携などの問題も起こっている。しかし、表面的に平和革命路線を推進し、宮本穏健路線を貫いた結果、1979年(昭和59年)の総選挙では39名を獲得したが、その後は自民党やサンケイ新聞からの「自由を守れ」キャンペーンがマイナスとなり、議長が宮本から不破哲三を経て現在の志位和夫に変わる中でも一進一退の議員数であり、今回の総選挙では大幅に議員数を減らした。又、総得票数も最低となったのである。しかし、日本共産党は2017年(平成29年)1月現在約30万人の党員を擁し、西側の諸国では最大の規模となっている。国会議員は先の選挙で衆議院議員は12議席と減ったが、なお参議院には14名と、馬鹿にならない勢力を保っている。また地方議会においては2800人を抱えている。

 

■第三章「日本共産党の真の姿」

第1節「二段階革命論の考え方」
さて、最近あるマスコミにこんな話が出ていた。「最近の若い人々には共産党は保守政党と思っている人が結構いる」と。何故なら共産党の主張は10年1日の如く変わらないからである。即ち「憲法9条改正反対」「自衛隊の海外派兵絶対反対」「消費税反対」「大企業及び高所得者への課税促進」などその主張は全く時代に合わないままで、むしろ自民党の方が時代に即して変わって行っている。と、若い人は思っているのではないか?
ここで余り一般の国民が知らない事を紹介しておこう。この事は先にも少し触れたが、もう少し詳しく書くと日本が敗戦して1946年(昭和21年)に新しい憲法が公布されたのであるが、この憲法は俗にマッカーサー憲法と云われるように、連合国側から全くの押し付けられた憲法であるが、一応国会において審議され、旧大日本国憲法を改憲したというた形式をとっている。この審議の際、当時の自由党(現在の自民党)をはじめ全ての保守革新政党が新憲法案に賛成したのであるが、共産党一党のみそれに反対した。理由は、「主権在民と天皇制の両立はあり得ない」この事は共産党の基本テーゼ通りであるが、もう一つ、これが重要なのであるが「この憲法では9条のもと、日本に自衛権がなく、これでは日本の主権と独立は守ることはできない」これが彼等の反対の理由であった。現状はどうか。「9条改正絶対反対」である。この事は国民のほとんどは知らないが、是非覚えておいてほしいのである。日本共産党が目指すのは当然社会主義革命なのであるが、現状の日本では一足飛びにここに到達するのは無理と考え、2004年(平成16年)につくられた彼等の綱領では先に述べたように次のとおり定めている。即ち「我が国は高度に発達した資本主義国でありながらも、国土は軍事などの重要な部分はアメリカに握られ事実上の従属国となっている」このような現状の中で、日本に必要なのは社会主義革命ではなく「民主主義革命」であり、次の段階において社会主義革命を目指すとしている。これが即ち二段階革命論で、これは1961年(昭和36年)につくられた綱領から続いている。戦前の考え方は「絶対主義的天皇制を廃止するためブルジョア革命を起こし、次いで社会主義革命を起こせ」と定義しており、基本的には同様の考え方である。これは1917年(大正6年)のロシア革命において、当初の2月革命ではケレンスキーを指導者とするブルジョア革命に端を発し、その後レーニンの指導のもとにボリシェヴィキによる社会主義革命、即ち10月革命によりソヴィエトが成立した事が頭にあるのであろう。

 

第2節「社会主義的変革の内容」
さて、共産党が先ず目指す民主主義革命とは「日本共産党とアメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対する統一戦線が国民多数の支持を得て、国会において安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府、民主連合政府をつくる事が出来る」として単独政権ではなく統一戦線に基づく連合政権を目指している。また「国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は当然堅持する」としている。ずい分ソフトな物云いであるが、日本共産党が、当面民主主義革命を成就したあかつきには、社会主義を支持する国民の合意を前提に、国会の安定した過半数を得て社会主義を目指す権力をつくり、次のような社会主義的変革を目指すとしている。即ち

①資本主義を乗り越え、社会主義、共産主義の社会へ前進をはかる。
②主要な生産手段の所有、管理、運営を社会の手に移す生産手段の社会化
③民主主義と自由の成果、資本主義の価値ある成果のすべてを受け継ぎ発展させる。
④思想、信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由を厳格に保障する。

一見上に述べたように日本共産党の路線は、平和路線である。
しかしながら、私は次の通り考えるのである。

民主集中制を日本共産党はとっている。この民主集中制とはもともとロシア革命において、レーニンが共産党の運営方針として党員による民主主義的選挙によって選出された指導部を中心として、中央集権的に党組織を運営するのであったが、レーニンからスターリンに権力が移行した時点でこれは言葉だけで民主集中制の名のもとに共産党一党独裁のツールとなってしまった。事実選挙によってという言葉も名前だけで、ソ連共産党、中国共産党などすべて選挙という言葉は有名無実である。我が国の共産党も現在の志位委員長が全党員の民主的選挙から選ばれたのかどうか私にはわからない。民主集中制の名の下に独裁が行われていると思う。ましてや現在の委員長より不破元委員長に実権があるとも聞くが何をかいわんや、である。

 

第3節「日本共産党の目論見と怖さ」
さて、上記の①~④の社会主義共産革命への道程を批判してみよう。

①の資本主義を乗り越え、社会主義、共産主義社会への前進をはかる。
これはスローガンとしては大変結構であるが、ロシアに始まって現在真の共産主義国家など存在していないことは、皆さんご承知の通りである。中国は政治的には共産党一党独裁によるいびつな資本主義国家である。

②主要な生産手段の所有、管理、運営を社会の手に移す生産手段の社会化。
これはソ連、中国、ベトナムなどほとんどすべての国でことごとく失敗に終わった道筋ではないか。あらため日本の社会を国営化するなどその非効率を考えると今更どうしてこのような考えが出てくるのか、噴飯ものである。

③民主主義と自由の成果、資本主義の価値ある成果をすべて受け継ぎ発展させる。
このような事では、社会主義、共産主義の意味を全く失ってしまうのではないか。
一般大衆に対するリップサービス以外の何ものでもない。

④思想、信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由を厳格に保障する。
共産党が天下を取れば上にかかげた事は一切ご破算になるであろう。そうしなければ彼等の主義を貫き通す事が出来ないからである。このような事を本気で考えているなら、議会で反対党が民主的選挙で多数を取り戻すなら元の木阿弥ではないか。甘い言葉には虫酸が走る。

多少話は違うが第一次世界大戦後、
ナチスドイツが急速に台頭して1937年(昭和12年)
ヒットラーが党首である国家社会主義労働党が
議会において第一党となり、合法的に政権を握ったのであるが、
一度政権の座についたヒットラーはその後、独裁に転じた。

まして仮に日本共産党が合法的にあるいは
他の左翼政党と共同で民主連合政権が出来た場合、
絶対に彼等は政権を手離す筈はない。
彼等はそのまま手段を選ばず共産党独裁に移行していくであろう。
これが日本共産党のあからさまな目論見であることは間違いない。
その事が十分わかっているから公安調査庁、警察庁は、
共産党を破壊活動防止法(破防法)に基づく調査団体として指定しているのである。
2016年(平成28年)3月の時点においても日本政府は
「現在においても共産党は破防法に基づく調査対象団体である」としており、
共産党が「暴力革命」の方針を捨てていないと認識している。
日本共産党の実態、こわさについては書ききれないが、
我々はこの現状には細心の注意を払っていかなければならない。
羊の皮を被った狼こそ日本共産党の真の姿である。