国士 中川昭一
IMFのストロスカーン専務理事が世界の記者団に向かって
「日本による資金融資額は 人類史上過去最大 の 貢献 である」
「日本からの資金援助は今回のサミットでの最大の成果である」
と感謝を示した。
なぜ、あのような「酩酊状態」になったのか、
なぜ、それにもかかわらず記者会見に臨んだのかという原因究明がされないで、
一方的に面白おかしく「酩酊状態」が報道され続けたことです。
当時、私はニュース解説をしているCS局「チャンネル桜」の番組で
「あの時点で関係者や会見前の食事に同席していた人や新聞記者を全部取り調べるべきだ。
特に新聞記者は公の場でどんなことが起きていたのか説明するべきだ」と言いました。
「酩酊状態」になった理由は知らなくても。
自分が 関係者なら 絶対止める か 数時間遅らす
———————————————————
朝のニュースをたまたま最初に息子が見て
「大変なことになっている。パパが変だったよ」と。
次のニュースを見てインターネットで確認し、これは大変なことになっていると。
しかし、日本では大騒ぎになっていたにもかかわらず、
成田から公用車に乗ってすぐ掛けてくれた電話で
「今着いたからね。テレビ見てた?」と言うのです。
「大変なことになっているわよ」と私が言ったら、
主人には「何言っているんだ」と逆に不審がられたんです。
本人は何も知らなかったんです。
西村:財務省の大臣官房や財務省のお役人、大臣秘書官たちが何も情報を取っていないし、
どういう報道があったのかフィードバックもしていません。
危機管理の点からも考えられないことですね。
中川:「何をニュースでやっているんだ、
俺はちゃんとやってきたじゃないか」
と事情の分からない主人は電話でそう言いました。
主人はいみじくもIMFのストロスカーン専務理事が世界の記者団に向かって
「日本による資金融資額は人類史上過去最大の貢献である」
「日本からの資金援助は今回のサミットでの最大の成果である」
と感謝を示したように、非常に達成感をもって帰ってきたわけです。
バチカンでの真相 神父さんからの手紙全文
「バチカンで警報機鳴らしてない」 中川前財務相が反論
3月14日11時23分配信 産経新聞
自民党の中川昭一前財務相は14日朝の民放CS放送番組で、
ローマでの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)での
「もうろう会見」後に視察したバチカン博物館で、
立ち入り禁止区域に入って警報機を鳴らすなどの失態をしたとの報道について
「警報器も鳴っていないし、私に対する注意もなかった。
同行した神父さんから、お酒のにおいはしていなかったと手紙をもらっている」
と述べ、一部は誤りと主張した。
☆中川氏が述べているその手紙の全文を載せます。
●バチカン神父が見た“あの日”の大臣
バチカン放送局 神父 和田誠
私は今、日本から送られてくる報道に、大きな戸惑いと、深い悲しみを抱いています。
私自身も関わった中川前大臣の博物館見学が、
何故あのように、事実と異なる形で報じられるのでしょうか。
私は見学の間中、通訳として中川前大臣の最もお側近くにおりましたが、
報道のような非常識な行為を、見た記憶はありません。
また、中川前大臣はあの時、酔っているご様子には見えませんでした。
私はアルコールを一滴も受けつけませんので、その臭いには敏感です。
しかし中川前大臣からは、お酒の臭いはしませんでした。
以下、日本の報道のどこが事実と異なっているか、ご説明したいと思います。
今回の問題を 最初に報道した朝日新聞 に、こう書かれています。
《(バチカン博物館に)
到着時から中川氏の足取りはフラフラとおぼつかなく、言葉もはっきりしなかったという。
案内役の説明を聞かずに歩き回ったほか、入ってはいけないエリアに足を踏み入れたり、
触ってはいけない展示品を素手で数回触ったりした。
そのために警備室の警報が少なくとも一回なったという》
—————————————————-
イヤイヤ 無理無理 おかしいおかしい
これ書いたヤツ誰だっっ 朝日新聞の記者って誰だ~っ
「お前も」荷担してんだよ 「お前も」殺したんだよ
このまま有耶無耶で終わると思うなよ 植村隆か?
—————————————————-
足取りがふらふらしていたかは、見る人の主観によるものでしょう。
しかし言葉がはっきりしなかったとは、いったい誰が言っているのでしょうか。
見学の間中、中川前大臣とお話したのは通訳であった私です。
中川前大臣の言葉は、非常にはっきりしておりました。
「案内役の説明を聞かずに歩き回った・・・」というのも、おかしな話です。
案内役とはイタリア人ガイドの事でしょうが、
彼女のイタリア語の説明を中川前大臣が聞けるはずがありません。
中川前大臣は、私の通訳を聞いていたのです。
私が通訳をしている間は、もちろん歩き回りなどしませんでしたし、
非常に熱心に耳を傾けておられました。
「入ってはいけないエリアに足を踏み入れたり、
触ってはいけない展示品を素手で数回触ったりした」というのも、私には大いに疑問です。
少なくとも私は、明らかに非常識とされる場面は目撃しませんでした。
一つだけ心当たりがあるとすれば、朝日新聞の記事に出てくる次のような指摘です。
《バチカン博物館でも特に有名な、
「八角形の中庭」の「ラオコーン」像を見学した際には、
観光客が近づき過ぎないようにするための高さ三十センチのさくを乗り越えて
石像の台座に座るなど、非常識な行動をとったという》
この時の様子は、私も覚えています。
さくというのは誤りで、実際はロープでしたが、
中川前大臣がラオコーン像に見入るあまり、ロープを越えて近づいたのは確かです。
このため、そばにいた警備員がイタリア人ガイドに一言二言注意しましたが、
中川前大臣はすぐ戻ったため、特に問題にはなりませんでした。
「石像の台座に触る」こともしていません。
記事が指摘するような「非常識な行動をとった」とは、
私を含め周囲の誰も思わなかったことだけは、述べておきたいと思います。
バチカン博物館は規模が大きく、普通に見学すれば五~六時間はかかります。
そこを一時間半ほどで見て回り、
しかも世界最大級の教会堂建築として知られる
サン・ピエトロ大聖堂まで見学したのですから、
相当な急ぎ足で、とても「フラフラ」できる余裕はありませんでした。
しかし、十分な時間はとれなかったとはいえ、
このときの見学は、とても有意義であったと私は思っています。
中川前大臣は私に、美術と歴史に関する事を、
とても気さくに話しかけて来られました。
お話の内容から、とくに古代ローマへのご関心が高いようでしたので、
私はイタリア人ガイドに指示して、ローマ美術とそれ以前の
エルトリア美術を展示してあるコーナーを集中的にご案内しました。
私は通訳の役目を、十分に果たしたものと満足にしていました。
ところが一週間後、あのような報道がなされたのです。
この間、バチカンで中川前大臣の「非常識な行動」が
話題になった事は全くなく(そもそも非常識な行動などなかったのですから
話題にならなくて当たり前ですが)、それこそ寝耳に水の思いでした。
朝日新聞の報道ののち、私は日本の新聞社、通信社、
テレビ局から取材を受け、事実かどうかと聞かれました。
そこで、中川前大臣の行動に非常識な点はなかったと
繰り返しご説明したのですが、私の発言は一行も報じられませんでした。
——————————————————–
はいっ 敵! コイツラ全部敵です 日本の敵
朝日新聞、日本の新聞社、通信社、テレビ局
全日本人 朝日新聞解約で
——————————————————–
日本のマスコミはすでに、中川前大臣は酔っていたはずだ、
非常識な行動をしたに違いない、という先入観にとらわれており
、私の意見をまともに聞こうとはしなかったのでしょう。
どの報道も朝日新聞と似たり寄ったりだったことは、残念でたまりません。
中川前大臣には、ご同情申し上げます。
また、御家族をはじめ身近な人たちのご心痛を思うと、やり切れない思いです。
私はたまたま通訳として、今回始めて中川前大臣とお会いしましたが、
その場にいたものとして、
事実と異なる報道で苦しんでおられるのを見過ごすわけにはいきません。
このため取材にも積極的に応じてきましたが、
記者たちの先入観を改めることはできませんでした。
今はただ、バチカン観光における誤解が一日も早く解け、
皆さまに心に平穏が訪れるよう、祈るだけです。
正論2009年5月号 P100~101
IMFのストロスカーン専務理事は日本の事を人類の歴史上最大の貢献だと評価
IMFの融資を高く評価するのはこれが日本にとっても大きな利点があったからです。
日本はIMFを通じて借金を返済して貰えるのです。
更に為替リスクもIMFが負い、IMFが定めるSDR金利も支払われます。
まとめてみると、
IMFへの一千億円の融資は寝ていた資金をリスクゼロでIMFに提供し、
多くの国のデフォルトを防ぎ、結果的に債権国である我が国の国益になるのです。
更に「人類史上最大の融資」と謝辞まで送られるという完璧な施策になります。
しかし、マスコミはこの事を詳しく報じませんでした。
そしてマスコミは捏造し偏向報道し彼の失脚を促したのです。
現在の民主党及び売国奴はもちろん中曽根元総理や、
小泉元総理等売国奴は今ものほほんと暮らしています。 今日 死ねっ
日本の国の為、
睡眠を削って必死に頑張っていた大臣を貶めその汚名も晴らせないまま、
まだ誤解している人達が多い事を腹立たしく思います。
日本にスパイ法があれば、暗殺されずにすんだかもしれません。
とにかく日本は、国益を護っていた偉大な政治家を失ったのです。
中川さんのファン、応援していた人はぜひ読んで下さい。
「夫、中川昭一が遺したもの」~中川郁子氏インタビュー
インタビュアー 西村幸祐氏
西村:昨年10月3日の突然のご逝去以来、慌しい時間が過ぎていったと思います。
中川:庭いじりが好きだった夫が、東京の自宅の庭に密かに植えていたチューリップが蕾をつけ、花を咲かせたときは、本当に嬉しかったんです。
主人が植えたことに気づかなかったからです。そして、こんな寒い春でもチューリップは咲くものだと感心しました。
西村:2月末に偏向メディアを監視するブログ集積サイト「メディア・パトロール・ジャパン」を、作曲家のすぎやまこういちさん、今度自民党から参院選に立候補する三橋貴明さんと一緒に作ったんですが、じつは、中川先生を追悼する意味を込めてチューリップを拉致問題のシンボル、ブルーリボンと一緒にデザインしています。女性デザイナーの発案でした。
ところで、4月18日の帯広市長選挙で中川さんは積極的に表舞台に立たれるようになりました。
中川:はい。自民党推薦の上野敏郎候補の応援をお手伝いしました。民主党の米沢候補は、驚いたことに民主党を離党した石川知裕議員が選挙戦の中盤から前面に出て応援し、今の矛盾した日本の政治を象徴するような選挙戦を繰り広げました。
そして、新党大地の鈴木宗男議員と歌手の松山千春さんが最前線に立って米沢候補を応援しました。昨年の衆院選挙で夫を破った「民主党の風」の再来を思わせる選挙でした。
残念ながら私が応援した上野候補は敗れましたが、わずか138票の小差でした。昨年の衆院選に比べれば帯広市民も確実に何かに目覚めたのではないかと思っています。
その証拠に、同時に行われた市議補欠選挙では、主人の秘書だった神谷ひろゆき氏が大差で民主党候補を破りました。私が「残念だが、今日の結果は負けたとは思わない。僅差だし、本当に多くの方から温かいメッセージをいただいたと思っている」と地元メディアの取材に答えることができたのも、こんな背景があったからです。
この選挙で繰り返し私が訴えたのは、主人が生前訴えていた「十勝・日本が危ない」という言葉でした。そんな主人の想いを多くの皆さんに伝えたい一心で応援したんです。
西村:中川さんが政治の矢面にお立ちになったことが色々な憶測を喚ぶかもしれませんね。
中川:正直申し上げて、昨年はここまで私が政治に関わることになるとは想像もできませんでした。
10月3日の主人の突然の死は、主人の総選挙での初めての敗北の後に襲ってきた悪夢のようなものでした。だから、冷静に何も考えられない日々が続いていました。
でも、そんな私を勇気づけてくれたのは、若いスピードスケート選手、高木美帆さんの大活躍でした。高木美帆さんは中学生で史上初のスピードスケート五輪代表選手に選ばれたばかりで、バンクーバー五輪を控えた今年の1月9日から、「明治北海道十勝オーバル」で、初の国際大会が開催されました。
十勝オーバルは去年の8月に国内2番目の屋内スピードスケートリンクとして完成しましたが、主人が生前スピードスケートリンクを帯広に、と熱心に取り組んでいたこともあり、この大会への私の想いも強いものになったんです。
西村:中川先生はスポーツ好きでサッカーにも詳しかったですよね。
中川:故郷への想いからウィンタースポーツの普及にも熱心でした。
主人が関わらせて頂いていたスピードスケート。その晴れの舞台で、高木美帆選手が大活躍しました。高木さんは帯広市の隣町、幕別町の出身で地元のヒロインですが、彼女の若さとキラキラする瞳をテレビで見て、ああ、私も頑張らなければいけないと思うことができたんです。
主人は前から「日本の子供たちの目がキラキラ輝いていないのだよ」と言って心配してました。経産大臣のときにカンボジアへ行って、真宗大谷派が支援しているカンボジアの幼稚園の先生を養成する施設に行きました。そのとき、子供たちの目がすごく輝いていて、それに比べて日本の子供たちの目が輝いていないねと、その頃から言ってました。
十勝オーバルでの高木美帆ちゃんの目が私には輝いて見えたのですが、あのリンクはずいぶん好記録が出ていて、選手は十勝で滑りたがっているという話を聞いて、本当に良かったという気持ちです。
スピードスケートリンクはコンクリート構造ですが、民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンの嘘を実感できたからです。
美帆さんの瞳の輝きに主人の言葉を思い起こし、彼が建設に尽力したスケート場をNHKを通して多くの国民が見てくださっている、と思ったとき、不思議なことにとても大きなエネルギーを頂きました。あの中継を見てから、私は前向きにものを考えられるようになりました。
西村:とにかく突然のご逝去でご家族の驚きと悲しみは想像を絶するものがあったと思います。
中川:じつは、亡くなる8日前の9月25日には友人の個人病院の先生の所で簡単な検査も受けています。そのときも、どこも悪いところはないという診断で、主人はとても喜んでいました。
主人は、大きい病院と個人病院を交互に訪れ、まめに健康診断や検査をしていたのです。ですから、主人が突然ああいうことになり、家族は本当に大きな衝撃だったんです。
最後の健康診断をした友人の医師の方は、それまでの色々な検査の結果や司法解剖の結果を見て「本当に大きなストレスや哀しみがあると心臓が止まってしまうことがあるんだ」と慰めてくださいました。
主人がお酒を控えていたのも事実です。検査では全然発見できなかったのですが、やはり血管の古くなっている部分などがストレスなどで機能しなくなったのではないか、循環器系障害の突然死ということです。
今では、主人の死を本当に世の中には判らないことがあるということではないかと、自分を納得させています。
主人が亡くなったあと、安倍総理は毎日お葬式の日まで自宅にいらしてくださいました。葬儀まで4、5日あったにもかかわらず、ときには昭恵夫人を伴って1時間も主人の前にいてくださいました。本当の友達のように思って頂いたことに心から感謝しています。
それに、麻生総理にもよく来て頂きました。麻生総理はその都度色々な言葉で私たち家族を励ましてくれて。お通夜の前日ですが麻生総理が息子に、「お前、この4日間でいい顔になってきたな」と仰ったという話を聞いて本当に素敵な方だなと思いました。私は聞いていなかったんですが、息子はもちろん、娘もとても励まされたと言っています。
中川昭一、麻生太郎
中川昭一、麻生太郎
西村:先生の去年夏の衆院選落選の原因は、やはり去年の2月14日のイタリアで開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議の記者会見の報道だと思います。
不思議なのは、なぜ、あのような「酩酊状態」になったのか、なぜ、それにもかかわらず記者会見に臨んだのかという原因究明がされないで、一方的に面白おかしく「酩酊状態」が報道され続けたことです。
当時、私はニュース解説をしているCS局「チャンネル桜」の番組で「あの時点で関係者や会見前の食事に同席していた人や新聞記者を全部取り調べるべきだ。特に新聞記者は公の場でどんなことが起きていたのか説明するべきだ」と言いました。
中川:麻生内閣で財務大臣に就任後すぐに世界金融危機が起きました。それまでも緊張感をもって仕事をしていた主人が、本当に異常な緊張感で連日仕事に就いていました。もちろん日本の危機、世界の危機ですから、大変緊張して仕事に向かうのは当然といえば当然ですが、私は家族として主人の体調がとても心配でした。
やはりマーケットが気になるので、毎日世界の市場動向を気にしていたし、役所からの書類が自宅のポストに来るのですが、とても気にして何回も階段を降りて見に行っている姿を見ていました。
これは本当に普通の状態ではない。緊張が今までになく高まっているということを私でも感じました。農水大臣のときも、その時その時で緊張感のある場面を私も一緒に見てきましたが、今度ばかりは本当に寝ていないのではないかと思う毎日でした。
ヨーロッパのマーケット、ニューヨークのマーケットと、世界のマーケットを見ながら何回も居間に降りてまだ役所の書類が届いていないか確認したり、赤いサインペンでマークしながら書類に目を通していたので、朝食も居間で食べることも無く、私は書斎におにぎりを運ぶ毎日でした。
そういう状態が続く中で、一昨年12月の予算委員会でしゃっくりが1週間止まらないという状態になったんです。懇意にしていた鎌倉建長寺の高僧の方が心配してくださり、緊張感とストレスが非常に溜まっていて起こる症状だと仰って、色々アドバイスをしていただいたこともありました。
その後また1週間しゃっくりが止まらないという状況が2月にもあり、ちょうど治ったか治らないかというときにローマ出張があったので、何か悪いことが起こらないかと心配していました。しかし、主人は非常に張り切り、十分な下準備をしてイタリアへ出かけました。
そのとき、主人はIMFへの10兆円の投資のことが頭にあり、私にはその話はしませんでしたが、「テレビを必ず見ておくようにね」と言われたのです。これまでニュースを見ておくようになどと、言われたことがあまりなかったんです。つまり、それだけ、主人は昨年2月14日のG7財務大臣・中央銀行総裁会議に賭けるものがあったのだと思っていました。
西村:あの「酩酊会見」のニュースには本当に驚かれたのではないですか。
中川:はい。主人があれだけ全精力を注いで臨んだ国際会議だったので、私も気にしていました。そうしたら、朝のニュースをたまたま最初に息子が見て「大変なことになっている。パパが変だったよ」と。次のニュースを見てインターネットで確認し、これは大変なことになっていると。
しかし、日本では大騒ぎになっていたにもかかわらず、成田から公用車に乗ってすぐ掛けてくれた電話で「今着いたからね。テレビ見てた?」と言うのです。「大変なことになっているわよ」と私が言ったら、主人には「何言っているんだ」と逆に不審がられたんです。本人は何も知らなかったんです。
西村:財務省の大臣官房や財務省のお役人、大臣秘書官たちが何も情報を取っていないし、どういう報道があったのかフィードバックもしていません。危機管理の点からも考えられないことですね。
中川:強いて情報を教えなかったのかどうか、それは私には分かりません。「何をニュースでやっているんだ、俺はちゃんとやってきたじゃないか」と事情の分からない主人は電話でそう言いました。
主人はいみじくもIMFのストロスカーン専務理事が世界の記者団に向かって「日本による資金融資額は人類史上過去最大の貢献である」「日本からの資金援助は今回のサミットでの最大の成果である」と感謝を示したように、非常に達成感をもって帰ってきたわけです。
ところが、会見報道で大変なことになっていたので、「とりあえず私に聞くより周りの誰かに聞いてみて」と私は言いました。
私が最初に見たのは6時か7時のニュースで、主人が飛行機に乗って帰ってくる間誰も分からなかったのは不思議だと思いました。しかも出迎えの人たちがいらっしゃったと思うのですが、その方たちは何も知らなかったのでしょうか。本当に狐につままれたような気がします。
麻生首相
西村:奥様はあのとき、玄関で中川先生を励ます言葉をかけました。けっこう世の主婦たちの間で評判になったんです。
中川:テレビクルーの撮影が終わって電気が消えたから録音されていないと思って、主人を励ましました。ところが、娘に「それでも音は拾っているのよ。ママは本当に何も知らないんだから」と怒られました(笑)。
確かに、主人が亡くなった後、皆さんが口を揃えてあの会見事件について指摘したのが、仰るように「企業だったら、徹底的に危機管理をする」「あんな状態で記者会見に絶対に出さない」という憤りでしたね。
主人が亡くなった後にも、IMFのことで主人と高校の同級生だった玉木財務官が出張されました。昨年のG8でもゼーリック世界銀行総裁がかなり長い時間をとって主人のことに言及したそうです。
主人とゼーリックさんは、なぜか気が合いものすごく長いお付き合いでしたが、「中川のお陰で金融危機を乗り越えることが出来たのです」と長いスピーチにしてくださったそうです。
西村:あの会見から1年以上たって、新たにお分かりになったことはありますか。
中川:ある財務省の方が「財務省の記録では、あのときホテルのドアを開けるまでは中川は非常に元気だった。それからあの会見の途中で具合が悪くなったとしてあるので、中川の名誉は守れる」と仰いました。でもそれは、中川の名誉を守ることにならず、役所が守られるという気がしました。
玉木財務官は昨年12月に行われた高校の同窓会で、「あのとき決して中川はお酒を飲んでいませんでした。それを僕は役所を退官してから、次のライフワークとしてそれを証明していきたい」と話をされたそうです。
西村:そういう発言は貴重ですが、なぜ、退職後でないとそれを証明できないのかという疑問が残ります。それこそ、本来はマスコミが追究するテーマですよ。
恐らく玉木財務官はあの「酩酊会見」の理由がお酒でないことを確信しています。ですから、直前に食事を一緒にした読売の記者や他の記者たちをメディアが後追い取材しないのは非常に不思議です。
中川:私もマスコミがやはりおかしいと思ったのは、家の前であの直後本当に取材陣がすごかったんですが、少し収まったなという頃にまたバチカンで不祥事を犯したという話が出たことです。
バチカン放送局の神父様がわざわざお手紙をくださって、「自分が取材を受けました。取材を受けたときに、中川さんは全く普通にしていました。ご主人は歴史が好きなので、ローマに関する本もたくさん読んでいるので、その話で盛り上がりました」と伝えたと。
「自分が注意したのは、他のガイドがすごくうるさかったのでその人に注意しましたが、中川さんは全く関係ありませんでした。マスコミの取材にはそう答えたのに、全く違う報道が行われている」「事実と違う報道が日本でされているのですね」というお手紙を頂いたのです。
2月14日の記者会見から続いた主人を非難する報道は、やはり、間違いなくマスコミの偏向報道だと私は思っています。
西村:中川先生は以前から何度も報道被害を受けています。
5年前の1月12日の朝日新聞は、安倍幹事長(当時)と一緒にNHKに政治圧力を掛けたと捏造報道を行いました。あのときも、私は雑誌などで報道テロに等しいやり口を解明し反論しました。
安倍さんも中川さんも、日本が嫌いな人たちにとって目の上のたんこぶのような存在でしたから。
中川:偏向報道と言えば、昨年の衆院選挙も酷かったんです。
主人が選挙区を回っている様子を報道したものですが、その選挙区のお爺さん、お婆さんと主人は、昔からの顔見知りで子供みたいな気持ちになって言葉を交わしていました。そのときの主人とお爺さん、お婆さんの会話が、主人が地元で見限られているような印象を与えるように、言葉の一部分だけをカットして報道されたんです。
「こういうところもあったけど、でも私は一生懸命やるから」と主人が言うと、「こんなときに来てもね」と返答されているように、ずいぶん作り上げられて報道されました。
あれでは取材された側も驚きます。「こんなときに」という言葉のニュアンスはその人が話した内容を全部聞けば分かります。本当は哀愁に溢れる言葉だったのに、そこだけ使用して、色々な番組で繰り返し繰り返し報道されました。
選挙期間中というのはネガティブキャンペーンをしないのがルールのはずですが、去年の衆院選は選挙の前の日までそういう報道が行われていました。
日本、IMFへ10兆円 投資・・・。
あのとき、
日本はとてつもなく かっこよかった。
中川昭一、郁子
西村:中川先生との出会いについてお聞きしたいのですが。政治家の妻になるという意識はありましたか。
中川:19歳のときに友人の紹介で出会い、3年半お付き合いして結婚したのは23歳のときでした。出会ったときは選挙権もない歳だったので、政治家の妻になるという意識はありませんでした。ただ義父が農林大臣だったので、そこで初めて中川一郎という名前も知って、テレビで見てこういう人がお父さんなのかという、その程度の意識でした。
お付き合いしているうちに社会人になり、「政治家を継ぐことがあるのですか」と主人に聞くと、「親父も若いし、先のことは分からない。弟もいるし、叔父もいるし」と言われた記憶があります。
昭和57年の3月に突然、主人から食事をするからホテルに来ないかと誘われ、そこでいきなり義父に紹介されました。義父に「結婚するのか」と聞かれ、いやまだそこまで、お互いプロポーズもしてもいないし、されてもいないので、と答えると、「そういうのは早いほうが良いね。今年大きな仕事をしようと思っているので大事なことは早くしたほうがいい」と言われました。
「それじゃあ」と言ってスケジュールを見て、義父は「6月5日が空いている」と。もう電話を高輪プリンスに掛けてその場で結婚どころか、式場まで決まってしまったんです(笑)。義父が自民党の総裁選に出たのはその年の9月でした。
交際中、主人のことを友人は「昭ちゃんって、明治の男みたいね」と言っていました(笑)。彼はお世辞も下手だし、余計なことをあまり語ろうとしなかったんですね。
思い出すと、家族旅行など本当に数えるほどしか行けませんでした。家族4人で旅行したのは2回。ゴールデンウィークどこか行くの?という話題にはついていけないことが多かったんです。ああ、連休があるんだと、友達との会話で知らされる結婚生活でした。
西村:昨年8月30日の総選挙に落選してからお亡くなりになるまで、中川先生はどのように過ごされていましたか。
中川:失意の日々を過ごしていたのではないかと多くの方が仰いましたが、少なくとも家ではそんなことはなく、非常に前向きに次にもう1回選挙に出る意欲を話していました。そして、選挙までは一国民として日本のために仕事をしたいといつも言っていました。
それは何かというと、主人はずっと水資源の問題にも携わってきて、今、世界が水の危機を迎えるし、日本にも水の危機がくることを確信していました。
しかし、逆に今、GDPが中国に抜かれるであろう状況の中で、日本を救うのも、この水資源問題だし、水ビジネスを国家の基幹産業として考えていました。水資源や水質の研究機関を党派を超えて意識ある政治家の人たちが手を携えて作り、新しい国家目標の1つにできるのではないか。そんなことをよく言っていたんです。
日本の豊富な天然の水と技術力で、超純水が作れたり、食料品に含まれる水の価値が必ず日本のブランドの力になると信じていました。そして、水資源を利用するインフラ整備に本格的に取り組むことで新しい産業も生まれるはずだと常々私に語ってくれました。
また、政治家という立場を離れても、自分が何か民間で水資源に関わる仕事をさせて頂くことができるのではないかと、主人は庭に出るのがすごく好きだったので、庭でそういう話を私と交わしていました。
私も環境問題のNPOを2年前に立ち上げたので、主人が水問題に熱心なことから、私も主人を応援するし、一緒になにかやっていこうという話を亡くなる直前、3日前にもしていたんです。
プライベートでは、2人で旅行に行くことなど全くできなかったので、なくなった10日後には旅行へ行く計画も立てていました。
西村:政治家、中川昭一の奥様として、一番嬉しかった出来事は何だったのでしょうか。
中川:主人が政調会長になったときの最初の予算委員会の質問で、コンドラチェフの経済理論についての質問が良かったと主人に言うと、とても喜んでくれました。主人が亡くなった後で安倍総理にその話をしたら、議事録を読んで頂き、葬儀の弔辞を書いてくださいました。
それと去年の苦しい選挙戦のとき、北海道新聞主催の討論会があって、石川議員と共産党の候補の方と3人で話したんですが、その討論会で石川さんに対して、民主党候補だからと攻撃するわけでもなく、本当に大人の立場で同じ政治家としては、自分が先輩なんだからという形で、とても余裕のある話をしたことが私は嬉しかったんです。
帰宅した主人に哲学のある話だったから良かったと言うと、「そんなこと言っているのはおまえだけだ」と言われたことを思い出します。新聞を見るとそれが伝わってこないので残念でしたが、そのときは、自分なりに一生懸命主人に尽くしてきて本当に良かったと思いました。
西村:最後に奥様から読者の方に何かメッセージを。
中川:今の日本は大変なときを迎えていると思います。大変だけど、産みの苦しみのときではないでしょうか。
そんな話を先日、中山恭子さんがされていたのですが、本当にそんなときに北海道には福寿草という花があって、春が来たのだなと北国の人は思うんです。雪の下に芽を出して、小さくて可愛らしい花ですが、しっかりと健気に咲いている福寿草のことを思い出します。
冬の時代でも必ず芽を出すんです。そのように日本が再生、蘇ることを私は信じています。主人が命を賭けて訴えていた「日本が危ない」というメッセージに、私なりに応えていけるのではないかと考えています。
中川昭一、チューリップ。「花は、一生懸命咲くので好きだ」
と言われていた。中川昭一さんが言われたように、日本に花を咲かせましょう。一生懸命咲く花を。
「花は、一生懸命咲くので好きだ」
と言われていた。
中川昭一さんが言われたように、
日本に花を咲かせましょう。
一生懸命咲く花を。
(successのブログ しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにけるより)
バチカンでの真相 神父さんからの手紙全文
「バチカンで警報機鳴らしてない」 中川前財務相が反論1
「バチカンで警報機鳴らしてない」 中川前財務相が反論
3月14日11時23分配信 産経新聞
自民党の中川昭一前財務相は14日朝の民放CS放送番組で、ローマでの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)での「もうろう会見」後に視察したバチカン博物館で、立ち入り禁止区域に入って警報機を鳴らすなどの失態をしたとの報道について「警報器も鳴っていないし、私に対する注意もなかった。
同行した神父さんから、お酒のにおいはしていなかったと手紙をもらっている」と述べ、一部は誤りと主張した。
☆中川氏が述べているその手紙の全文を載せます。
●バチカン神父が見た“あの日”の大臣
バチカン放送局 神父 和田誠
私は今、日本から送られてくる報道に、大きな戸惑いと、深い悲しみを抱いています。私自身も関わった中川前大臣の博物館見学が、何故あのように、事実と異なる形で報じられるのでしょうか。
私は見学の間中、通訳として中川前大臣の最もお側近くにおりましたが、報道のような非常識な行為を、見た記憶はありません。
また、中川前大臣はあの時、酔っているご様子には見えませんでした。私はアルコールを一滴も受けつけませんので、その臭いには敏感です。しかし中川前大臣からは、お酒の臭いはしませんでした。
以下、日本の報道のどこが事実と異なっているか、ご説明したいと思います。
今回の問題を最初に報道した朝日新聞に、こう書かれています。
《(バチカン博物館に)到着時から中川氏の足取りはフラフラとおぼつかなく、言葉もはっきりしなかったという。案内役の説明を聞かずに歩き回ったほか、入ってはいけないエリアに足を踏み入れたり、触ってはいけない展示品を素手で数回触ったりした。そのために警備室の警報が少なくとも一回なったという》
足取りがふらふらしていたかは、見る人の主観によるものでしょう。
しかし言葉がはっきりしなかったとは、いったい誰が言っているのでしょうか。
見学の間中、中川前大臣とお話したのは通訳であった私です。
中川前大臣の言葉は、非常にはっきりしておりました。「案内役の説明を聞かずに歩き回った・・・」というのも、おかしな話です。
案内役とはイタリア人ガイドの事でしょうが、彼女のイタリア語の説明を中川前大臣が聞けるはずがありません。
中川前大臣は、私の通訳を聞いていたのです。
私が通訳をしている間は、もちろん歩き回りなどしませんでしたし、非常に熱心に耳を傾けておられました。
「入ってはいけないエリアに足を踏み入れたり、触ってはいけない展示品を素手で数回触ったりした」というのも、私には大いに疑問です。少なくとも私は、明らかに非常識とされる場面は目撃しませんでした。一つだけ心当たりがあるとすれば、朝日新聞の記事に出てくる次のような指摘です。
《バチカン博物館でも特に有名な、「八角形の中庭」の「ラオコーン」像を見学した際には、観光客が近づき過ぎないようにするための高さ三十センチのさくを乗り越えて石像の台座に座るなど、非常識な行動をとったという》
この時の様子は、私も覚えています。
さくというのは誤りで、実際はロープでしたが、中川前大臣がラオコーン像に見入るあまり、ロープを越えて近づいたのは確かです。
このため、そばにいた警備員がイタリア人ガイドに一言二言注意しましたが、中川前大臣はすぐ戻ったため、特に問題にはなりませんでした。
「石像の台座に触る」こともしていません。
記事が指摘するような「非常識な行動をとった」とは、私を含め周囲の誰も思わなかったことだけは、述べておきたいと思います。
バチカン博物館は規模が大きく、普通に見学すれば五~六時間はかかります。
そこを一時間半ほどで見て回り、しかも世界最大級の教会堂建築として知られるサン・ピエトロ大聖堂まで見学したのですから、相当な急ぎ足で、とても「フラフラ」できる余裕はありませんでした。
しかし、十分な時間はとれなかったとはいえ、このときの見学は、とても有意義であったと私は思っています。
中川前大臣は私に、美術と歴史に関する事を、とても気さくに話しかけて来られました。
お話の内容から、とくに古代ローマへのご関心が高いようでしたので、私はイタリア人ガイドに指示して、ローマ美術とそれ以前のエルトリア美術を展示してあるコーナーを集中的にご案内しました。
私は通訳の役目を、十分に果たしたものと満足にしていました。
ところが一週間後、あのような報道がなされたのです。
この間、バチカンで中川前大臣の「非常識な行動」が話題になった事は全くなく(そもそも非常識な行動などなかったのですから
話題にならなくて当たり前ですが)、それこそ寝耳に水の思いでした。
朝日新聞の報道ののち、私は日本の新聞社、通信社、テレビ局から取材を受け、事実かどうかと聞かれました。
そこで、中川前大臣の行動に非常識な点はなかったと繰り返しご説明したのですが、私の発言は一行も報じられませんでした。
日本のマスコミはすでに、中川前大臣は酔っていたはずだ、非常識な行動をしたに違いない、という先入観にとらわれており、私の意見をまともに聞こうとはしなかったのでしょう。どの報道も朝日新聞と似たり寄ったりだったことは、残念でたまりません。
中川前大臣には、ご同情申し上げます。
また、御家族をはじめ身近な人たちのご心痛を思うと、やり切れない思いです。
私はたまたま通訳として、今回始めて中川前大臣とお会いしましたが、その場にいたものとして、事実と異なる報道で苦しんでおられるのを見過ごすわけにはいきません。
このため取材にも積極的に応じてきましたが、記者たちの先入観を改めることはできませんでした。
今はただ、バチカン観光における誤解が一日も早く解け、皆さまに心に平穏が訪れるよう、祈るだけです。
正論2009年5月号 P100~101