加害者デス 旭川イジメ事件

朝鮮進駐軍の実態

消せない史実: 朝鮮進駐軍の実態

●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●
「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。 そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。
戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。

 

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。 GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。
戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。
「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。 これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

 

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。
農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。
財を成した彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

 

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。 在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

 

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。 警官が駆けつけても手も足もでない。 終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。 戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。

 

本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。
これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。

彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。

1945年(昭和20年)8月15日 終戦 (昭和天皇による終戦の詔書(玉音放送))

終戦当時、国内には200万人以上の在日朝鮮、台湾人らいわゆる第三国人が居住していたが、兵庫県内では、大阪、東京についで全体の7%強13万5千人を数えた。一部第三国人の暴動は、天皇の玉音放送のあったわずか数時間の後、国鉄湊川駅の襲撃から始まった。

 

 

 

昭和20年8月15日、日本が降伏しました。

それから間も無く、国鉄深川駅構内の貨物列車を襲撃して、配給物資を略奪。日本全国に滞在していた在日朝鮮人たち(三国人)は、略奪、暴力、婦女暴行(レイプ)を繰り返していました。

 

三国人は、特攻隊員の特攻服を好んで身につけていました。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引さげていました。

 

通報を受けて、日本の警察官が現場に行っても、在日朝鮮人たちは、「俺たちは戦勝国民だ、敗戦国のくせに生意気だ」と言って、全く太刀打ちできませんでした。
終戦時、日本国内には、在日朝鮮人と在日台湾人は、約200万人住んでいました。

 

兵庫県には、日本全国の在日(三国人)のうち、7%に当たる13万5千人が住んでいました。
在日たちは、三国人連盟を日本全国に300箇所作り、テロや略奪を繰り返して、その略奪した品物を闇市で売ってぼろ儲けしていました。

 

そんな無法地帯と化した神戸の街を救った、ある男がいました。

彼は、昭和20年8月末、人通りもすくない病院の裏手で女の悲鳴を聞きました。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女は泣きじゃくりながらその男にしがみついた。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」

男は、少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。

その在日たちは、不敵な笑いを浮かべて、女の手足を押さえつけて、一人が、その女の上に乗っかっていました。

女はひたすら絶叫していました。

「汚ねえ」

男は、その光景を見た瞬間、とっさに目潰しを、相手の在日朝鮮人たちに与えました。
目から血を流しながら、在日たちが逃げ去って行きました。

レイプされていた女性は、ぼろきれのようになって、その場で放心状態になっていました。

「しっかりするんや、わかるか」

と体を揺り動かしても、虚ろな瞳孔を開いたまま、突然けたたましい笑いました。
精神的ショックのために、精神に異常をきたしてしまったのでしょう。

この女性の娘は、遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいました。

「許せん!」

男の血は激しく燃えちぎりました。

「このまま、在日たちに神戸の街をのさばらしておいていいのか!報復を恐れて誰も立ち上がらないのなら、俺一人でも立ち上がり、在日の奴らの前に立ちふさがってやろう。私は許せないのだ!」

無法地帯と化した神戸の街を救おうと、男は自警団を組織しました。
そして警察の代わりに神戸の街の治安維持に努めました。

その男の名は、田岡一雄。
のちの山口組三代目組長となる人でした。

参考図書
「山口組三代目 田岡一雄自伝」

もう黙っていられない 「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」
山口組三代目 「田岡一雄自伝」 1982年 徳間文庫
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

 

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。

通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。

 

こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものがあった。

 

警官が駆けつけてきても手も足も出ない。 「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。

 

玉音放送ののち、今まで同じ日本人として権利を享受してきた 朝鮮人の態度がガラリとかわり、敗戦の責任を日本人とともに背負うのを拒否しだし、それを正当化するために日本人に牙をむきはじめる。

 

隣組み組織や防空演習等いっしょにやってきて同じ日本人として助け合っていたのに、この変わりように、初め祖父は「冗談だろ?」と思ったらしい。しかし、事は悪夢以上だった。

 

集団で土地をロープで囲み、バラックを建てていた家族を殺害し占拠する。白昼、商店を襲い、商品を根こそぎ奪いそれを闇市で売りさばく。

 

バスや列車に無銭で駅員を殴り倒し、どかどか乗り込み、網棚の荷物を外に放り投げ、そこで高いびき。警官狩りをして堂々と殺す等等。祖父曰く「町は彼らの遊び場になった。日本人は逃げ惑うだけになった。

 

蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。

 

我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。

 

しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。

 

他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。

 

日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。

 

「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。

 

だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。

 

この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。

 

『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。

 

そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。

 

そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。

 

『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。

 

昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)

昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。 そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。

 

新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。

 

私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。

 

心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。

 

座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。

 

それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)

佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。

 

弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。

 

こういった真実は現代のマスコミでは完全なタブーとなっている。著名な駐日大使ライシャワーの「日本史」でも戦後の朝鮮人の横暴は記載されていたが、たった1行書かれていただけなのに在日や左翼の抗議が殺到したという。

現代を生きる日本人の皆さん、日本人が終戦を迎えたときに韓国・朝鮮人に何をやられたのかよ~く心に刻んでください。

強い者には事大し、衰えると手のひらを返して残酷なまでの裏切りをする、それが韓国・朝鮮人です。有史以来、ずっとこの繰り返しです。決して心を許してはならない民族なのです。

 

そして、都合の悪いことは力で封じようと躍起になります。自分達が悪いことをしても罪の意識が無いのです。都合が悪いことは全て他人のせいにして、己の非は決して認めようとしません。

 

そんな大げさなと思うかもしれませんが、普段挨拶程度の付き合いならわかりにくいかもしれませんが、利害が絡めば途端に民族性が露になります。

 

まともな人間もいますが、その人たちの身内までがまともとは限りません。だからこそ、彼らと対峙する時は慎重でなければなりません。もし、朝鮮民族がまともな人たちの集団であれば、自分達がやったことを棚に上げて一方的に日本人を悪者にはしていません。自らの罪をきちんと認め日本人被害者にそれなりの謝罪と償いをしているはずです。

 

それが戦後63年経つ今でも清算されず放置されたままです。今後も韓国・朝鮮人が変わることはないでしょう。日本人はそろそろ朝鮮民族と決別するべきです。

 

『土地も物資も女性の体も片っ端から奪い放題であった。今、朝鮮人がパチンコ屋や焼肉屋を営業している駅前の一等地は、皆あの時奪われた被害者達の土地だ。』 高山正之